今年7月、いよいよオリンピックが開幕し、8月にはパラリンピックの開幕も予定されています。
新型コロナウイルス感染症の感染拡大により1年の延期を経ての開催となりましたが、中止を求める声も多くありました。
そんな中、何度も耳にした「アスリートファースト」という言葉。
五輪というイベントはそもそも、世界中の多くのトップアスリートが人生をかけて目指し、血のにじむような努力の成果を目いっぱいぶつけ合う夢の舞台であり、周囲の関係者はそんなアスリートたちが主役として最善の環境で戦える場を提供する、何よりもそこを重視して最大限のサポートをする、そういうことだと思っていました。
しかし、実際にふたを開けてみるとどうだったでしょうか。
コロナ禍によるさまざまな制約については仕方ないとしても、国民の多くが中止や無観客開催の声を上げた1番の理由は何だったのか? それは関係組織や政府による、あまりにも多くの矛盾をはらんだ運営体制への憤りではなかったでしょうか。
中でも私が気になったのが、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の立ち居振る舞いについてでした。特に、日本入りしてからの、緊急事態宣言中の東京から広島・長崎への移動、開会式での長すぎるスピーチなど、私には彼が、自分が主役でありたいように見えて仕方がありませんでした。あるいは、自粛要請中に日本の首長が集まって開催された歓迎パーティーなどを見ると、日本の政府や組織委員会がそのように担ぎ上げていたのかもしれません。
当時の状況を見れば、それらを行うことで五輪開催への批判がさらに高まることは誰の目にも明らかでした。それが肝心のアスリートたちを苦しめることに直結するのも分かっていたはずです。式典や来賓というものは、もちろん、イベント自体の格式を高めたり、盛り上げたりするための大切な要素ではありますが、それが主役にとっての雑音になったり、活躍の場を奪う原因になるようでは本末転倒です。
「アスリートファースト」とは何か?
五輪に限らず、私たちでも年齢が上がって来ると、地域やPTAなどで上役を任されたり、来賓として招かれることも増えてきます。
「役職は高くても脇役」である人たちの振る舞いが、「主役」の活躍に水を差すことが無いよう、今回感じたものを忘れずに謙虚に年を重ねていける大人でありたいと思いました。
(稲穂)
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